三淵嘉子(虎に翼モデル)の子供や夫など家族構成や家系図は?生い立ちは?

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2024年4月1日(月)からスタートするNHK朝ドラ『虎に翼』ですが、主人公は伊藤沙莉演じる猪爪寅子です。

そのモデルとなったのが、日本初の女性弁護士で、のちに裁判官となった三淵嘉子さんです。

三淵嘉子さんは素晴らしい経歴の持ち主である一報、結婚もしており、夫と子供がいました。

そこで今回は「三淵嘉子(虎に翼モデル)の子供や夫など家族構成や家系図は?生い立ちは?」と題して、三淵嘉子さんの家族や生い立ちについて調査したいと思います。

三淵嘉子(虎に翼モデル)の子供や夫など家族構成

朝ドラ『虎に翼モデル』のモデルとなった三淵嘉子さんの子供や夫などの家族構成について、詳しく説明していきます。

三淵嘉子(虎に翼モデル)の子供

三淵嘉子さんの子供は、全員合わせて5人います。

そのうちの4人は再婚相手の連れ子で、1人だけ最初の結婚相手との間に生まれた実の子供です。

三淵嘉子さんの5人の子供の名前は以下の通りです。

最初の夫との子供:和田芳武(長男)・1943年生まれ

再婚相手との子供:三淵那珂(長女)、奈津(次女)、麻都(三女)、(長男)

最初の夫との間に生まれた子供・和田芳武さんは1943年生まれで、2024年現在は81歳になるお歳です。

しかし、現在は既にお亡くなりになっているということでした。

また、再婚相手との間の子供4人についての生年月日などは、情報がほとんどなく不明でした。

2024年現在、長女の那珂さんはお亡くなりになっているという情報があり、生前は三淵嘉子さんとぶつかることがあったと言われています。

三淵嘉子(虎に翼モデル)の夫

三淵嘉子さんは再婚をしているため、2人の男性が「夫」という存在でした。

1人目:和田芳夫

2人目:三淵乾太郎

1人目は、最初の結婚で夫となった和田芳夫さんで、三淵嘉子さんの父親の中学時代の親友のいとこにあたる男性です。

三淵嘉子さんが当時28歳の時の1941年に結婚しますが、夫・和田芳夫さんは兵隊として戦地へ行くことになり、5年後の1946年に戦病死し、最後は会うことなく死別となります。

息子の芳武さんは、その時まだ3歳だったそうです。

その後1956年に、裁判官をしていた三淵乾太郎さんという名前の男性と再婚したことで、姓が「和田」から「三淵」に変わりました。

前述しているように、三淵嘉子さんの4人の継子は三淵乾太郎さんの連れ子ということになります。

三淵嘉子(虎に翼モデル)の家族構成

三淵嘉子さんの家族構成を、生まれ育った家族と、自身が結婚し築いてきた家族に分けてご紹介します。

【生まれ育った家族】
父親、母親、弟4人、本人の7人家族

三淵嘉子さんが生まれ育った家族構成は、ご両親と弟4人の7人家族でした。

三淵嘉子さんは第一子の長女として、シンガポールで生まれました。

【最初の結婚時の家族】
夫、息子1人、本人の3人家族

最初に結婚し、三淵嘉子さん自身が築き上げた家族は、夫である和田芳夫さんと一人息子の芳武さん、そしてご本人の3人家族です。

【再婚時の家族】
夫、娘3人、息子2人、本人の7人家族

再婚時の家族構成は、夫である三淵乾太郎さんと、その連れ子の子供達4人、ご本人、そして自分の子供の7人家族でした。

三淵嘉子(虎に翼モデル)の家系図

三淵嘉子さんの家系図を簡単に説明していきます。

三淵嘉子さんは、貞雄という父親とノブという母親の間に生まれた第一子の長女です。

父親:貞雄
母親:ノブ

さらに、弟が4人いました。

長男:一郎
次男:輝彦
三男:晟造
四男:泰夫

父親は、香川県出身で台湾銀行に勤務していました。

母親は、武藤直言さんと駒子さんの間に養子として育ち、貞雄さんはノブさんと結婚することで武藤姓を継ぎます。

よって、三淵嘉子さんは「武藤嘉子」→「和田嘉子」→「三淵嘉子」と2回姓が変わっていることになります。

三淵嘉子(虎に翼モデル)の生い立ち

三淵嘉子さんの生い立ちを簡単に説明していきます。

三淵嘉子の生まれ

三淵嘉子さんは、貞雄とノブの長女として、1914年(大正3年)11月13日にシンガポールで生まれました。

シンガポールの漢字表記は「嘉」だったことから、嘉子という名前がつけられます。

三淵嘉子さんの幼少期は、歌とダンスが得意な子供で、その頃から既に聡明でもありました。

三淵嘉子の学歴

聡明な三淵嘉子さんは「東京女子高等師範学校附属高等女学校」を卒業し、女子に唯一法学の門戸を開いていた「明治大学専門部女子部法科」に入学しました。

当時の日本は女性が文学を学ぶことは珍しく、特に法律を学ぼうとしている三淵嘉子さんは、変わり者だと思われるほどでした。

母親のノブも大反対でしたが、我が道を進むことを決意した三淵嘉子さんは1935年、明治大学法学部に入学。

在学中の成績は、男女の中でもトップで、卒業式には総代を務めたほどでした。

弁護士としての道

裁判官になることを目指していた三淵嘉子さんですが、当時の日本は裁判官になれるのは男性だけと決まっており、ショックを受けながらも、日本で初めての弁護士となります。

三淵嘉子さんが弁護士になったのと同時に、明治大学同窓の中田正子さん、久米愛さんも弁護士となり、その3人が「日本初の女性弁護士」として歴史に名を刻むようになります。

裁判官としての道

戦後になると、男女平等が謳われるようになり、女性でも裁判官になることができるようになりました。

女性初の裁判官を務めたのは石渡満子さんで、その4か月後には三淵嘉子さんも裁判官になることができました。

その時はまだ再婚相手の三淵乾太郎さんとは結婚しておらず、裁判官という責任のある仕事をしながら一人で息子を育てていたのです。

そして、1972年には新潟家庭裁判所長に任命され、初の女性家庭裁判所長となります。

1973年11月に浦和地裁の所長、1978年1月に横浜地裁の所長を務め、1979年に退官します。

翌年の1980年に再び弁護士に戻り、その後「日本婦人法律家協会」の会長や「労働省男女平等問題専門家会議」の座長を務めました。

最期

三淵嘉子さんは、1984年5月28日に骨癌のため、69歳でお亡くなりになりました。

現代からすると、69歳で死去されるのは早いと感じますが、これまで三淵嘉子さんの生い立ちを見てわかるように、やりたいことを精一杯努力してやり切った人生のように感じます。

まとめ

今回は「三淵嘉子(虎に翼モデル)の子供や夫など家族構成や家系図は?生い立ちは?」と題して、朝ドラ『虎に翼』の主人公のモデルとなった三淵嘉子さんについて調査しました。

三淵嘉子さんには5人の子供がいて、1人は自分が生んだ子供、あとの4人は再婚相手の連れ子でした。

そのため、夫と呼べる男性は2人おり、1人目は和田芳夫さん、2人目は三淵乾太郎さんです。

和田芳夫さんとは死別しており、念願の裁判官になれた時は一人で子供を育てていました。

その後、三淵乾太郎さんと再婚するわけですが、三淵乾太郎さんの連れ子の長女とはぶつかることも多々あったようなので、家族関係が順調にいっていたわけではなさそうです。

69歳でその生涯を終えましたが、生い立ちを見る限りでは三淵嘉子さんの人生は悔いがなかったように感じます。

本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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